秩父の剣道を支えていただいた先輩剣士
剣道七段以上の物故者
(あいうえお順、敬称を略す)
赤岩 弘
微妙な間合いの剣道を使い、軽率に打ち込むと出小手を見舞われた。いつもにこやかな温和な人柄で、酒席を愛した。兄弟の頼道氏と共に戦後剣道の復興に尽力された。
新井一夫
剣道と併せて戦後の織物産業の隆盛に貢献。姿勢は常に美しく、構えは堅固にして強靭な手の内を使う。秩父市助役を長く務めたが、日課の素振りで執務室の敷物が薄切れしていた話は有名。本連盟会長、県連盟の副会長を歴任した。
新井通太郎
旧吉田町の出身で、地元の剣道普及発展に尽力した。柔和な人柄で誰にも優しく接していただいた。住まいが吉田町でもかなりの山奥だったが、行事には足繁く参加された。
飯島重裕
剣道連盟の発足や明信館剣友会を中心に秩父剣道の普及発展に多大な貢献をされた。生え抜きの明信館剣道の伝承者で豪快な剣道で指導に当たった。長く体育協会役員を務め、明信館の維持保護にも尽力した。
磯田 中
戦中の中断はあったが、連盟発足後稽古を再開。究めるまで徹底して練磨し自得する気風を有した。攻め抜いての先々の面は正に修行者の憧れであった。勝負強さから国体選手にも選出された。本連盟の会長をはじめ、県北剣友会、県連盟の役員も歴任し、剣道の普及発展に多大な貢献を果たした。
磯田 平
建設会社社長や、秩父市観光協会会長の激務の中でも武道への関心は旺盛で、剣道と銃剣道の修行を継続した。得意技は引き胴で上体をかがめながら左に開いての胴は強烈であった。稽古後の豪快な笑いは声は道場中に響いた。
岩田彦治
秩父セメント剣道部の中心者。秩父の居合道の創始グループの一員。剣道は強烈な稽古で打突の強さは抜群だった。得意技は抜き面で、目から火が飛ぶような強さだった。退職後自宅に剣道場丹心館を設け、居合道を中心に指導に当たった。
内田和助
明信館草創期からの修行者で、戦後剣道の再興に功績を残す。明信館剣友会並び秩父剣道連盟会長を歴任。剣風は穏やかにして、初心者から熟練者まで同様に対峙し、明信館剣道の真髄を伝えた。残心をとることを徹底的に指導され、狭い道場でも振り向いたときには必ず剣先を外すことは皆無だった。長男の擁一氏は明信館少年部の指導に長年にわたり貢献した。
大澤浩寿
皆野高校剣道部創立時、根岸光男先生から指導を受ける。卒業後も鉄道勤務のかたわら剣道を継続。豪快な剣風で太田の自宅庭に剣道場源武館を設立し、地域の剣道指導に当たる。早世が惜しまれる。
太田 巌
秩父農林学校時代から剣道を始め、東京都で教職員として活躍。退職前は指導主事等も務めた。退職後、郷里の栃本に住み、関東短大に勤務。秩父以外でも遠方まで出向いて稽古に励んだ。打突後の残心の取り方は独特で、打ち切るということを体現していた。
小河可作
稽古への往復は原付自転車が常であった。剣風は古武士を思わせるごとく豪快であった。三沢、皆野における少年剣道の指導に長く取り組み、女子剣道草創期の皆野中学校の活躍は歴史に残るものがある。教えを受けた剣士の数は多数を数える。
小高大吉
柔道の大家で接骨医の傍ら秩父高校で長年指導していたが、ある時点から剣道に転身。剣道は陸軍戸山学校で経験があった。粘り強い攻守は、勝負へのこだわりを感じさせた。銃剣道は教士8段。晩年は黒檀の木刀を作成に取り組んだ。
川田喜一郎
修道学院での修行経験があり、小気味良い剣風で稽古を愛した。
足払い、相手の竹刀を払い落すなど油断を許さなかった。懸り手の有効打突は快く認め、引き立て上手の稽古だった。長男行夫氏は病気で早世したが、秩父の剣道の次代を担う逸材であった。
笠原英文
地元の大滝中で根岸先生の指導を受け、秩父農工に進学し南先生の指導を受ける。在学中は好成績をあげ、全校大会にも出場。勝負強さはばつぐんであった。実家の神庭キャンプ場に剣道場を設置。剣道防具商を開き剣道の普及に貢献。早世が惜しまれた。
神辺清作
姿勢を正すために背中に棒を入れて稽古する姿は忘れ難い。退職後、一念発起して剣道に専心し、遠方まで出向いて稽古に励む。
竹を割ったような剣風で、汗びっしょりの稽古後の姿は印象に残る。書道の達人でもあり、快く筆耕にも応じていただいた。
黒沢清治
秩父農工在学時は野澤治雄範士と同年輩。長い中断はあったが横瀬町での剣道の流れを継承し、発展に努める。気張ることはないが、許さない一線を有し、基本に忠実な攻防が多く見られた。
倉持光憲
「秩父にもこんな物凄い剣士がいたのか」という驚きの登場であった。本連盟先輩諸氏の強い要請によるものであったと聞く。仏道と剣道が合体した統一体を体現し、立派な体格で堂々とした姿が剣道の真髄を感じさせた。穏やかな性格で確かな判断力を生かし、本連盟会長や県連盟副会長を務めた。
酒井塩太
戦後の剣道の復興に尽力。教職勤務の傍ら、遠方まで自転車で稽古に出向いた話は有名である。甲源一刀流の顕彰にも尽力され、京都大会で 福島与一氏と形の演武をしたことがある。居合や鎖鎌での稽古など古武道の伝承者でもあった。
高田 繁
戦後の剣道連盟発足に尽力。本連盟の運営や県連盟の運営に役員として活躍。気力に溢れた剣風で圧倒的な気位を示す。昭和55年中村町の自宅邸内に剣道場を構え、直心館道場を開き、少年剣道を指導。多数の優秀剣士を輩出した。
田島義六
明信館剣友会の会長を務め、剣道の普及発展に貢献した。大技を駆使した外連味のない剣道であった。特に「面返し胴」を得意技とした。書道を得意とし、大会の掲示物や賞状の浄書など快く引き受けられた。
根岸光男
群馬県佐波郡玉村町の出身。昭和40年代、大滝中学校への赴任を機会に秩父の剣道に参加。妥協を許さない厳しく攻める剣風。昭和42年埼玉国体に教職員として参加。松山高校を経て皆野高校に着任し長年にわたり剣道部監督を務め、数々の好成績を残す。卒業生には数名の8段取得者を数える。
福島与一
秩父農林学校、埼玉師範学校を通じ剣道を学び、教職にあたる。戦後、三沢で剣友会を立ち上げる。攻めの気風旺盛にして防御は堅く、機をみての一撃は強烈であった。酒井塩太氏と甲源一刀流を学び、師範の免許を得る。50代半ばから居合道を修練し8段範士を究めた。
南 済
戦後の剣道の復興に学校現場から貢献するとともに、秩父農工高校で体育教師を務め、剣道部の指導にあたる。範士取得を筆頭に多数の優秀な剣士を輩出した。地元の原谷地区や郡市内中学校の剣道の隆盛にも心を砕いた。稽古は懸り稽古が中心で、常に練習者の息が上がるまで引き出す稽古であった。
吉田明夫
闘志に溢れ先制の攻撃を旨とした剣風で一本一本を大切にする稽古は真剣そのもであった。将来の期待に大なるものがあったが、病魔に襲われ早世した。本連盟の事務局長も務め、大会運営等に手腕を発揮した。
(文責 池田克生)